ナガノという天才について~人魚の島のひみつ~ その2

 

前回に引き続き、

ちいかわの世界観、

それを生み出したナガノ大先生について語ります。

 

 

③モモンガとデカツヨ

 

主人公ちいかわとその仲間達は、

小さくて可愛やつら、いわゆる"ちいかわ族"として描かれています。

 

f:id:yodomu69:20260818102030j:image

 

その中でも、

イレギュラーな存在が"モモンガ"です。

 

f:id:yodomu69:20260818102238j:image

 

この可愛らしいキャラクター、

本当の身体の持ち主は別人で、

可愛い身体を奪って乗っ取ってしまったというのが正体です。

身体を奪った者の本当の姿は"デカツヨ"と呼ばれる、ちいかわ族とは"正反対"のデカくて強い奴らという存在です。

モモンガはこのデカツヨに身体を奪われて、

本来の姿とお互い中身が入れ替わっています。

 

f:id:yodomu69:20260818102809j:image

↑本当のモモンガの身体の宿主はデカツヨになってしまっています。

 

 

元の身体に戻りたい、元の身体を奪い返したいと思うものの、身体を奪ったモモンガは思うがままに"可愛い"を享受して身体を返そうとはしません。

 

f:id:yodomu69:20260818103012j:image

 

 

可愛いと対極的な存在の"デカツヨ"ですが、

彼らを"ちいかわ"族を可愛い存在として認識しています。

モモンガの身体を奪ったデカツヨは、

「私も可愛くなりたい。可愛い存在に成りたい。

可愛くなってちやほやされる存在になりたい。」

という明確な願望を持ってモモンガの身体を奪っています。

 

f:id:yodomu69:20260818135954j:image

↑モモンガの身体が奪われたシーン

 

 

ちいかわ族達は自分自身の事を"可愛い"と自認していないけど、この物語の中ではちいかわ族を可愛い存在として"観測する他者"の存在がいます。

 

それは、モモンガの身体を奪ったデカツヨだったり、"鎧さん"と呼ばれる謎の種族の存在だったりします。

 

f:id:yodomu69:20260818134332j:image

↑シーサーにお師匠と呼ばれて嬉しそうな鎧さん

 

 

 

ちいかわ達は可愛いという特権を享受して生きてはいないが、

鎧さん達の様にちいかわ族を可愛いがってくれる存在がいるので、

ちいかわの世界でも可愛いという事はやはり生きる上で特権的な力を有しています。

 

醜い見た目に生まれたモモンガの正体のデカツヨの様な存在が、

可愛くなりたいという願望を抱くのもその様な世界観の背景があるからだと言えるでしょう。

 

 

f:id:yodomu69:20260818140459j:image

 

ただこの"でかつよ"ですが、

こういう風になって暮らしたいという文とイラストと共に

"なんかでかくて強いやつ"

とナガノ先生が投稿したイラストが始まりです。(多分)

 

f:id:yodomu69:20260818142316j:image

 

ナガノ先生は"なんか小さくて可愛いやつ"になりたいという願望と共に、

"なんかでかくて強いやつ"という可愛いと対極に位置する存在になりたいという願望を同時に持っているということです。

 

 

ここで一読者として、

この作品から気付かされる事は、

我々"男性は女性から見たら皆デカツヨ"なんだよなって事です。

ちいかわ達が自らの可愛さに無自覚な様に、

成人男性が持つ"肉体的力"は無自覚にも無意識にも、女性や子供から見たら命を脅かす怖い存在になりうるんですよね。

 

 

「なにか嫌なことがあったらバーンとねじふせて」

悪い大人の見本みたいな事ですが、男性が強い力を持つ現代で、女性や子供は日常茶飯事のように経験してることでしょう。

 

僕も子供時代を思い返せば、

自分より身体がデカくて強い大人達は理不尽だらけで、

力があればいつかぶっ◯してやりたいと思っていた気がします。

 

ただ、

ちいかわの世界ではちいかわ族が突然変異で"

でかつよ化"する事があります。

小さくて弱い存在だった者たちが、でかつよになって肉体的な強さを得るのです。

 

f:id:yodomu69:20260818151222j:image

 

人は自らが強い力を得た場合に、

力で全てを"奪われる側"から、

一転して力で"奪う側"になり得ます。

そして、一度そうなってしまったら元の奪われる側に戻るのは難しいのではないでしょうか。

 

 

ナガノ先生は、

もし自分がその様に力を持つ存在になった場合をモモンガとデカツヨというキャラクターを通して描いてる様に見えます。

最強の肉体を得た本物のモモンガの心は、

優しい心とその強大な力との間で揺れ動いているように見えます。

 

 

④島二郎と鎧さん

 

人が強大な力を得た時、

人としての真価が問われるように思います。

どの様な生き方を選択するか、

どの様な人でいるか、

弱きを助ける人間になれるか、

本当の"強さ"とは何か?

 

ナガノ先生はその一つの答えとして、

今回の映画でも大活躍の"島二郎"や"オデ"というキャラクターを描いてるのではないかと思います。

 

f:id:yodomu69:20260818152809j:image

 

 

f:id:yodomu69:20260818153502j:image

 

彼らは初見、

デカくてマッチョでギョッとする見た目をしています。

小さくて可愛い奴らではないので、敵か味方かもわからないですが、

実際に彼らは"強くてとっても優しい奴ら"なんですよね。

見た目はおっさんだけど、強くて優しいというだけでカッコよくて、そして可愛く見えてくる不思議です。

ナガノ先生の魅力的なキャラクターの構築力は凄いです。

 

 

ちいかわの一男性ファンとして、

ちいかわ族になりたいと願うより、

ちいかわ達を助ける島二郎のような存在になりたいと思いますね。

 

ちいかわ達を助けてくれる存在として、

忘れてはいけないのが"鎧さん"達です。

僕の勝手な想像では、

鎧さん達はナガノ先生の仮の姿で、ちいかわのファンの読者達の仮の姿なのではないでしょうか。

そして、鎧さん達はちいかわという世界の"観測者"であり"観察者"であります。

 

「あまり深い意味はないのですが、カマキリのメスがオスを食べてしまう、みたいな生き物ならではの容赦のなさが好きなところがあるので、そういった生き物らしさを描きたい気持ちがあるのかも知れません。」

 

こう語ったナガノ先生は、

人間社会を俯瞰的に観察して、さらに自分という存在を含めた上で、人間社会に生きる人間としての、自分の感情すらも俯瞰的に観察して物語上で描いているように見えます。

"人間"という存在と地球上に暮らす違う種族の動物達が互いに気持ちを通わせる事ができる夢の様な世界が、ちいかわの世界に思います。

その中で、鎧さん達は"人間"的な立ち位置の存在に見えます。

 

f:id:yodomu69:20260818154932j:image

 

ある鎧さんがちいかわ族と関わりすぎて、

上司?的な鎧さんから注意される描写があります。

なぜ仲良くすぎると良くないんだ?という謎の描写です笑

だけどカマキリの話から推測するに、

僕がこれを解釈するとしたら、

例えば、

カマキリのメスがオスのカマキリを食べる場面に遭遇したとして、オスのカマキリを助けたとします。

すると逆にカマキリのメスはお腹を空かせて最悪死んでしまいます。

カマキリのメスはオスを捕食して栄養にして卵をエネルギーにするという話しです。

ここで、オスのカマキリを助けたとして、

それは人間の「可哀想」という感情によってもたらされる無意味な介入でしかないという視点もあります。

そういう視点で鎧さんの上司は、

関わりすぎるなと注意したのかもしれません。

 

 

自分が正しいと思う行動でも、

違う視点や立場だと間違いであったり悪であったりするわけです。

ちいかわはそういう事も考えさせられる作品であり、今回の映画では特にそのような視点によって答えの変わる、善悪の曖昧性が濃く描かれている気がします。

答えはないし、そのような複雑さを抱えて生きていく苦しさ、けどそれを飲み込んで生きていくと決める覚悟、そのような事をずっと映画を見て考えている気がします。

 

 

最後になりますが、

総括すると、

入場者特典の第3弾欲しすぎ‼︎

 

f:id:yodomu69:20260818172400j:image

ナガノという天才について~ちいかわ人魚の島のひみつ~ その1

 

はい、どうも。

見てきました、

ちいかわ劇場版、

人魚の島のひみつ‼︎

 

 

f:id:yodomu69:20260811215507j:image

 


f:id:yodomu69:20260811215503j:image

 

 

この映画が素晴らしい作品であるという事は、

Xでの感想ポストを見ても容易にわかる事であり、凄まじい反響です。

 

僕もちいかわというコンテンツは今より人気が出る前、人気に火がつき始めているくらいのと時から見ていますが、このような社会現象的なコンテンツまで成長するとは思わなかったです。

 

いわゆる「覇権コンテンツ」と呼ばれるちいかわの作者ナガノ先生の何が凄いのかというのは、

一度語らずにはいられないのです。

 

ちいかわ以外にも様々な作品を生み出している、

ナガノ先生ですが、その中で僕が知っていて、語りやすい「ちいかわ」を軸に語りたいと思います。

 

 

①キャラクターを通して読み解くナガノ先生の人間性

 

漫画にしろ小説にしろ、

面白い作品には個性的なキャラクターが付きものだと思います。

そのキャラクター達は良いやつ、悪いやつ、面白いやつ、真面目なやつ、変なやつ、ふざけたやつとか様々だと思います。

しかし、一つの作品において様々な個性を持つ彼らは皆、根底には作者の血が流れています。

良いやつと、悪いやつという対立した特性の2つのキャラがいたとしても、彼らの根底には作者の思想があり、両者とも作者の基準で考える「善悪」を血肉としてキャラの個性生まれます。

それらの様々な個性を持つキャラクターが関わり合い、時には協力、時にはすれ違い摩擦が生まれることで物語になるわけですが、そこから読み解ける作者の輪郭、人間性、思想などのプロファイルがあるはずです。

 

僕がちいかわを読んで感じる、ナガノ先生の像は率直な意見として、

 

「なんて偉大で、心の純粋な人なんだ…

そして、人生における幾たびの苦労をその知恵と才能とユーモアで乗り越えてきた、歴戦の猛者のような風格も感じる…

自らの作品の"味"を世間という一般的な庶民の口に合わせる"洞察力"と"チューニング力"、

しかし自分の癖と本性の部分を苦過ぎず辛すぎずで調合する"スパイス力"と"バランス感覚"、

そして、それらの味を"視覚"から読者に想像させて、期待といい意味での裏切りを巧みに操る圧倒的な"画力"。

とんでもない人と同じ時代に生まれてきてしまったもんだぜ。」

 

です。

 

f:id:yodomu69:20260814114049j:image

 

メインキャラの御三家がいます。

①ちいかわ 主人公、びびりだけど勇敢な一面もある、強運。友達思い。

②ハチワレ ポジティブ。言葉を話せる。天然。多趣味。友達思い。

③うさぎ 自由人。天才。予測不能。アウトサイダー。友達思い。

 

 

それぞれ、素晴らしい個性を持っているわけですが、漫画を読んでいると皆"友達思い"だという事がわかります。

ハチワレは言葉で友達思いな事がわかるし、うさぎは何か問題が起きたらその一見奇想天外な行動で状況を打開するし、ちいかわは仲間を助ける為に矢面に立ち、自らの命を賭する勇気を持っています。

その友達思い、優しさ、そして強さこそが、根底に流れるナガノ先生の血、思想であり、ファンを惹きつける作品の核なのだと思います。

 

 

f:id:yodomu69:20260814115213j:image

 

「こういう風になってくらしたい」

という絵と共に投稿されたこのイラストがちいかわの始まりだと認識してますが、これはナガノ先生の"願望"だったはずです。

それにうさぎが加わり、後に言葉を話せるハチワレが加わって最強トリオが完成しました。

 

 

"ちいかわ"が生まれたことに始まり、

うさぎやハチワレなどの脇役のキャラが生まれたことにより、

その周辺の彼らが住む世界が創造されていきます。

 

その世界には、

労働、資格試験、戦闘、そして"死"という概念まであります。

食事、報酬、娯楽という概念もあって我々の暮らす人間社会と同じです。

 

②タイトル"ちいかわ"と作品における世界観の遷移

 

"ちいさくてかわいいやつ"

を略して、"ちいかわ"。

 

「小さい」という概念も、

「かわいい」という概念も、

どちらも相対的なものです。

 

ナガノ先生の"こうなりたい"という願望から生まれた、ちいかわですが、ナガノ先生が自信を表現したキャラクター "くま"との比較対比からも分かるように、作者が自己と基準として、小さい、かわいい存在として出力されたのが"ちいかわ"なのかと考察します。

 

 

f:id:yodomu69:20260814154345j:image

 

広い画像ですが、

ナガノ先生はくまとちいかわを並べて描写する時には、結構サイズ感の差があります。

くまは"大きく"て、ちいかわは"小さい"。

身体のフォルム自体は変わりない様に見えますが、目の表現の差で"可愛さ"の差を表しているように見えます。

 

ナガノ先生は自分が成りたい願望的存在として、

"ちいさくてかわいいやつ"を生み出した。

これは僕の解釈だが、

小さくてかわいいやつになりたいという願望は言い換えるなら、

小さくてかわいいやつに成れば、勝手に人々に寵愛されて、社会が守ってくる存在になれる、一生懸命に働かずとも楽して生きていける特権を与えられる、そんな存在になりたいという願望であるだろう。

 

これは、ナガノ先生だけが持つ願望ではなくて、僕もそうだし、社会的にも多くの人が羨ましがる特権だと思います。

現代社会において"可愛い"とはそれくらいの特権を有しているといえます。

 

 

しかし、

ちいかわの世界観が構築される中で、

ナガノ先生は"可愛い"という事で得られる"特権"をナガノ先生はちいかわ達に与えはしませんでした。

辛い労働もあるし、お腹も減るし、資格試験に落ちるという現実もあるし、謎の生物に命を奪わるという危険も隣り合わせの世界です。

そもそもちいかわ達は"一部を除いて"自分達を可愛い存在として自覚していないし、

時には過酷な現実を仲間と助け合いながら一生懸命生きているだけです。

 

f:id:yodomu69:20260814162811j:image

 

時には、自分より、小さくか弱い守るべき存在に出会って成長したり、その姿にはとても勇気づけられます。

 

なぜ、

ナガノ先生はその様な残酷な世界にちいかわ達を住ませたのでしょうか?

 

 

「あまり深い意味はないのですが、カマキリのメスがオスを食べてしまう、みたいな生き物ならではの容赦のなさが好きなところがあるので、そういった生き物らしさを描きたい気持ちがあるのかも知れません。」

 

過去のインタビューでこう語っていたそうです。

ここから読み取れるように、ナガノ先生は自然の観測者という目線でちいかわ達を動かしているのかもしれません。ナガノ先生は残酷さが好きと言っているのではなくて、その様な残酷さや一見不条理な事のように思えることも"生きる"ということであり、そこには"可愛い"という特権も通用しない、ある意味皆"平等"であり、合理的な自然界の摂理に美を感じているのかもしれません。

普通に面白がってるだけかもしれないですが笑

 

 

そんな過酷な世界で健気に一生懸命生きている彼らは"生き様が可愛い"ですよね。

生き様が可愛いってなんやねんって思いますが、

これは"見た目が可愛い"以上にちいかわが人気な理由だと思います。

 

 

勝手な妄想をさせてもらうんですが、

ナガノ先生はちいかわというキャラを、

見た目が可愛くて苦労なしで生きていきたいという願望が始まりで生み出してから、

作品が人々の人気を集めて成長していく中で、

「可愛いって何だ?」

という問いに行き着いたのだと思います。

 

もし、

ちいかわが自らの可愛さを自認して、それを甘んじて享受して生きているキャラなら、"あざとい"や"うざい"というキャラなら、ここまで支持されていなかったでしょう。

 

その事について考えさせられるのが、

"モモンガ"というキャラクターです。

 

f:id:yodomu69:20260814175157j:image

 

今回の映画でも大活躍だったこいつは、

現代社会における可愛いとは何ぞやということを考えさせてくれる非常に面白いキャラクターです。

 

それについて、

続きは次回書こうと思います。

 

という事でよろしく‼︎

16x2

 

あけましておめでとうございます。

お疲れ様です。

 

2026年も上半期終わり、

下半期に突入です。

 

 

今年はブログも更新してなかったですが、

一言言いたい。

 

ワールドカップ面白え〜‼︎

 

 

僕は体育の授業くらいでしかサッカー経験ないし、地元にサッカークラブもなかったですが、

サッカーやっとけば良かったって思うくらいサッカーって面白い‼︎

 

玉を蹴り合って、お互いのゴールに入れ合うだけ。

そんなシンプルな事になぜ人々は熱狂できるのか。

競技の時間内で、

玉がどこにあったかどうかで、

世界規模で観衆に影響を与え、

国規模で世界に影響を与える。

 

右か左か。

攻めるか守るか。

勝ちか負けか。

 

そのサッカーボールという一玉にかかる人々の思いは、

この世界の歴史の重みであり、

選手一人一人がその瞬間に賭けて積み重ねた人生の重みであるのだろう。

4年に一度、

その積み重ねた人々の想いが弾ける。

儚く弾ける夢の日々は一瞬で消えゆく泡のような刹那。

その胸の高鳴りも、夢が終わる悲しさも、ワールドカップという舞台に立つ権利を与えられたサッカー選手にしか味わえない。

サッカー選手になりたかった…

 

 

そんな気持ちの土曜日の午後。

久しぶりに、

バトルロワイヤルという映画を見た。

f:id:yodomu69:20260719183536j:image

 

この映画16歳高校2年生くらいの時初めて見たんだけど、

その時の同級生の友達とこの映画について良し悪しを熱く語り合った事をなんとなく思い出した。

あの時から16年経ったんだな。

4x4で16年。

ワールドカップ4回分の月日があの時から経ったんだな。

と考えたら凄く早すぎる。

時の流れが。

 

三苫の一ミリからの4年経ったという事も早すぎる。

あの時俺は何をしていたのだろう。

人生という時間は早すぎる。

 

 

プリーズ ギブ ミー アディショナル タイム。

 

 

映画 秒速5センチメートル感想

 

f:id:yodomu69:20251020115917j:image

 

はい、こんにちは。

先日見た映画、

秒速5センチメートルの感想を書いていきたいと思います。(ネタバレ注意)

 

この映画は言わずと知れた新海誠監督の代表作アニメーションの一つ「秒速5センチメートル」の実写版となっております。

 

僕が最初にこのアニメを見たのは確か15年以上前、僕が小学生の頃、深夜のNHKで放送されていたのを見た時だと思います。

 

このアニメは視聴した人にトラウマを植え付ける「鬱アニメ」として有名ですが、

田舎生まれの小学生だった僕は何となくものすごく悲しい物語を見せられて、東京は物凄く遠くて悲しい場所で、大人になる事って希望がないのか、とか感じていたような気がします。

 

物語のあらすじを簡単に説明すると、

転勤族の親の影響で幼き頃から度々引越しや転校を繰り返していた主人公が、同じ境遇の女の子と運命的に出会い、互いに通じ合うのだが、その後また引っ越しにより離れ離れになるという話だ。

 

 

これまでも折に触れて何度か視聴していますが、

その度に感じ方は変わっています。

今回、実写版としてまたこの作品を鑑賞しました。感想としてはいい映画を、このタイミングで見れて個人的にすごく意味を持つ作品になりました。

 

というのも、

劇中での主人公の設定が鑑賞している僕自身とほぼ同じことが主人公へ自分を投影させ、物語へ没入させてくれたからです。

主人公は小学生時代から始まる過去の回想と、

「30歳」という現代へ至るまでの年齢を物語上で交錯させます。

この30歳という年齢は、"クォーターライフクライシス"とも呼ばれるように、もう子供でもなく、20代という「若さ」からも遠ざかる人生の段階的節目であり、心も身体も不安定になりやすい時期です。

僕自身今年30歳になるわけですが、実際、ここに至る数年は暗いトンネルを歩き続けるような不安で苦しい時期が続いた時がありました。

 

物語の中でも、

「お互い立派な大人になって30歳にまた再開する」

という約束が交わされます。

主人公は最後に別れた時から、心の中に"彼女"を思い続け、陰鬱とした感情を抱えたまま現代に至るまで同じような日々を繰り返していきます。

 

 

さて、

映画を見てて思ったことがいくつかあったので書いていきます。物語とは関係ない事も書いていきます。

  1. 映像について
  2. テクノロジーが解決してしまった問題
  3. 秒速5センチメートルというタイトル

 

  1. 映像について

さて、まず映像についてです。

映画が始まった冒頭でまず僕が映像に感じたのは「懐かしい感じ」という印象です。

この懐かしい感じというのは例えば"古さ"や"時代感"を感じさせる"映像の質"を感じさせる"カメラフィルター"が使われているところから来ています。

これは、

「あえてカメラの"解像度を落とす"事で、"古さ"を感じさせて、"懐かしさ"を引き起こす」

という、最近流行っている手法なのではないかと考えています。

 

例えば、

毎年新作が出ているiPhoneですが、

そのカメラは毎年新しくなるたびに性能が上がり、より解像度が高くなりより綺麗な画像のイメージを提供してくれます。

そして、解像度が上がれば上がるほど、映像は"鮮やか"で"綺麗"と感じるわけです。

しかし、ここで逆に初期の頃の古い型のiPhoneで撮った映像を見比べて比較した時、最新版のiPhoneと比べて画質は"荒く"、"汚く"感じるわけですが、その古さに時代を感じて、我々は"懐かしい"と感じるわけです。

 

テレビゲームなんかでも、ファミコンの画素数からスーパーファミコン、プレステからプレ2、プレ3とか比較したら、進化とともにより実写に近い表現が可能になっていますが、

古いものは古いもので"ノスタルジック"という価値があるわけです。

 

これは昨今、僕が感じている事ですが、

令和の現代で「平成レトロ」ブームで、

皆が古き良き時代を「昔は良かった」と回顧している人が多い風潮にあるように感じます。

その影響が最近の映像作品でも多く見られるように感じます。

 

 

映るんですやガラケー、などの古い画質は私達をその時代にタイムトリップさせる舞台装置として、絶大な効果を発揮します。

実際、僕もこの"レトロフィルター効果"でアニメの秒速5センチメートルを鑑賞していた小学時代から今に至るまでの走馬灯が脳内を駆け巡りました。笑

 

劇中で宮崎あおいさんが演じる役の台詞で、

「映画館の風景がよみがえる時がある」

みたいなこと言ってたきがするんですが、とても共感でした。

劇中歌で使われてたBUMP OF CHICKENの銀河鉄道も時代を感じさせるいい演出と思いました。

"2000年代の空気"を感じました。

 

 

2.テクノロジーが解決してしまった問題

 

ラブロマンスにおける愛の障壁として、

"遠距離の壁"があります。

物語の脚本としてカタルシスを起こすには、

ハッピーエンドへ向かう為に乗り越えるべき障壁が用意されているわけですが、

この作品では親の都合に振り回されて転校を繰り返すことになる"子供"であるということと、

会いたくても会うことができない"距離"であるということが主人公とヒロインにとっての最大の障壁です。

 

その2人をかろうじて繋ぎ止めるのが、

"手紙"や"電話"という手段ですが、

この2つはそれぞれメリットデメリットがあります。

 

手紙

自分の気持ちを時間をかけて整理して文章として相手に伝えることができる。

しかし、相手のところに届くのに時間がかかる。

 

電話

ほぼリアルタイムで自分の声で相手に思いを伝えることができる。

しかし、思ったことを伝えたいままに声に出して伝えるのは人によっては難しい。

 

 

というような事が言えると思います。

"思いを形にして相手に伝える"というのは時間もかかるし、精神的なエネルギーのコストも大きいものであったと思います。

これに遠距離という壁があれば、お互いが思いを繋ぎ止めるというのは相当難しいことです。

 

しかし、これは現代においてはテクノロジーで解決された問題で、スマホがあればもっと手軽に気軽にメッセージを送れるし、テレビ電話もできます。

主人公達がスマホのある現代に生まれたらこのような物語にはなっていないと思います。

 

 

と、

外野の人として他人の恋愛を観測してる人は思うわけですが、

恋愛の当事者としてはそうはいかないのが現実だよなと思います。

そもそも、テクノロジーが発達した現代に生きてる僕は、伝えたい思いを伝えたい相手にちゃんと伝えられてるのかどうかと聞かれたら、

全くそうではないと思います。

 

 

劇中で大人になった主人公もスマホのある現代に生きていましたが、

行き場のない自分の気持ちを誰にも伝える事ができないままで生きていました。

物語の終盤で、

主人公は自分が抱えた積年の思いを断ち切って次へ進む決断をしたように見えました。

それは、

"弱い自分を裸のまま誰かにさらけ出す"事ができたからなのかなと感じました。

僕も30歳になる前の数年までは主人公と似たような心持ちで生きていたのでとても共感できました。

 

しかし、昔見た時に比べてあまり暗い気持ちにはなりませんでした。

弱いまま大人になった主人公が生きる為に前に進んで"成長"して明るい未来へ進んでいく話に感じられました。

これは今回の劇場版に感じた印象であり、

1視聴者として僕も成長して大人なったが故に感じ方が変わったからなのかもしれません。

 

3.秒速5センチメートルというタイトル

 

最後にですがタイトルについて書きます。

昔はあまり意識しませんでしたが、秒速5センチメートルってタイトルすごくいいなって思いました。

 

桜の花びらが落ちる速度が秒速5センチメートルである。

 

劇中で登場人物も言っているか、真実かどうかはわかりません。

しかし、世の中には"真実かどうか"は重要ではなくて"誰と共有されたかどうか"が大事な情報があります。

秒速5センチメートルという言葉の中に、

桜吹雪のイメージがあり、桜が枝から散り地面に着地するまでの時間があり、寒さが残る初春という季節があり、それを観測している自分という視点がある。

実際に桜の花びらが秒速5センチメートルで落ちることが嘘だとしたら、それは本でもインターネットでも共有される事のない情報だ。

どうでもいい嘘だが、2人にとってはすごく大事な嘘だったりする。

正しさよりも誰と交わされた会話なのか、音なのか、時間なのか。

そういう事を思い出す言葉なんだなって思いました。

 

f:id:yodomu69:20251022104248j:image

劇場版 近畿地方のある場所について 感想

 

蝉の声を聞くたびに〜

 

どーも、こんにちは。

ついについに、

「近畿地方のある場所について」

が劇場公開されました。

 

f:id:yodomu69:20250810092253j:image

 

原作がホラー界隈で話題になっている本作ですが、

僕も友達に勧められてどハマりして一晩で読み終え、映画化の話が出てから今か今かと待ち遠しくしておりました。

 

しかも、

監督はあの 白石晃士監督。

日本における「モキュメンタリー」というジャンルの第一人者であり、現代日本ホラー映画界での実力は頂点に近い位置に存在であると僕は認識しています。

「ノロイ」や「貞子vs伽耶子」などなど代表作を挙げると枚挙にいとまがありません。

 

f:id:yodomu69:20250810094535j:image

 

その中でも、

「コワスギ」シリーズは白石監督好きなら是非見てほしいです。

僕はこの白石監督と、黒沢清監督は、

日本のホラー映画界における二大巨塔であると思っています。

 

 

 

モキュメンタリーホラーの第一人者である白石監督と、昨今のモキュメンタリーブームの火付け役とも言える「近畿地方のある場所について」の組み合わせは期待せざるを得ない、いや期待しかない、面白くならないはずがないです。

 

実際見た感想を述べると、

素晴らしすぎて感動しました。

そしてこれは全てのホラーファンにとっての青春を詰め込んだ作品といえるのではないでしょうか。

 

※以下感想、ネタバレ注意

 

 

 

まず原作の「近畿地方のある場所について」がどのような作品かというと、

ある雑誌の記者がホラー特集を組むためにホラーネタを集めていたら、その数多のネタの中から「近畿地方のある場所」に繋がる共通点を見つけ、その繋がりの根源にある謎の正体を解き明かしていくという内容だ。

 

この小説の特徴として、

このホラーネタの情報源=ソースが毎回記されていて、ネタの出所がインターネットの書き込みであったり、古い文献の引用であったり、昔のテレビ番組の書き起こしであったりと様々だ。

 

この情報源の記載が物語にリアリティを持たせる大きな役割をしているように思える。

おそらくこれは僕のようなホラーファンにほど刺さる手法だと思える。

何故なら、僕のようなホラーファンというのは、

刺激を求める中毒者のように恐怖を追い求める存在であり、さらなる恐怖を追い求めるために、本やインターネット、映像、音楽など様々な媒体をむさぼるように探索する傾向があるからだ(僕の場合だが)。

 

僕は小学生時代の2000年代は図書館にある怖い話の本を貪るように読み、

インターネットを手に入れた2010年代はYouTube、ニコニコ動画で恐怖映像を探し、「洒落怖」で怖い話を貪るように読み、GEOやTSUTAYAでホラー映画を貪るように借りて…

というホラー、オカルトファンは様々な媒体から恐怖を摂取しているのだ。

 

小説版「近畿地方のある場所について」は、

更なる恐怖を追い求め、夏も冬もオカルトを探し続けた「ホラーマニア達の青春」を

"文字、文書"

という媒体で追体験させてくれた。これは原作者の背筋さんもまた1人のホラーマニアだったから生み出すことが出来たのだと思う。

 

 

そして、今回、

劇場版「近畿地方のある場所について」は、

"動画、映像、音"

という媒体でホラーマニアの青春を追体験させてくれる作品になっている。

 

以下に紹介する画像は、

実際に僕が映画を見て、

元ネタが走馬灯のように浮かんできたものだ。

 

f:id:yodomu69:20250810102401j:image

謎のビニール紐

 

f:id:yodomu69:20250810102414j:image

日本昔話の怖い回

 

f:id:yodomu69:20250810102425j:image

ノロイのビデオ

 

 

友達とも遊びに行かず、

インターネットでホラーを追い求め、

恐怖に出会うたび眠れなくなり、

それでも恐怖を追い求めずにはいられないホラー中毒者達の青春がこの映画には詰まっている‼︎

 

 

また、8月、夏休みというこの時期に公開したということも凄い幸運だと思った。

僕が映画を見た劇場は夏休み真っ盛りの学生さん達がとても多かった。

学生時代に学校や、林間学校など各イベントで語られた"学校の怪談"と呼べる、あの時期に体験する恐怖イベントは、大人になってからは味わえない、子供にだけに与えられた権利だ。

だか、その学生さん達と劇場で一緒に鑑賞した際の空気感は、僕が学生時代当時に感じたあの感覚を思い出させてくれた。

 

僕たち世代が体験した平成のホラーを詰め込んだ本作を、令和の世代の学生さん達と見てると、

「どうだ、すっげー怖えだろ」

と先輩ぶって言いたい気分もした。自分が作ったわけではないけど笑

 

映画の最終的な展開は、

白石節が炸裂して最高でした。笑

これ「コワスギ」じゃねえか‼︎

オカルトの世界はやはり裏で繋がっているのですね。

f:id:yodomu69:20250810104004j:image

 

 

エンディングで流れた椎名林檎さんも良かったですね。

夏といえば、

椎名林檎さんの無罪モラトリアムを毎日聴いてる僕にとっては、これもまた甘酸っぱい青春の気持ちになりました。

f:id:yodomu69:20250810104233j:image

 

 

この作品を見た人たちがまたホラーマニアになって、日本のホラー界の未来が明るくなりますように。(ホラー的には暗い方がいいかも)

 

#映画

今日の空が一番好き、とまだ言えない僕は-映画感想

 

はいはい、

今日から5月です。

今日は労働者の権利の日メーデーということで会社が休みになりました。やったー!

 

さてさて、今週はGWです。

人によっては既に大型連休に突入している方もいるでしょう。

 

何をするかは人それぞれですが、

ここで先週僕が見た映画を紹介したいと思います。

劇場公開中の映画を2本ほど見たのですが、

どちらも凄い衝撃作。見る価値ありまくりなので、ぜひ見てほしいです。

 

一つ目は、

「今日の空が一番好き、とまだ言えない僕は」

f:id:yodomu69:20250501060158j:image

 

2つ目は、

「どうすればよかったか?」
f:id:yodomu69:20250501060200j:image

 

今回は、

今日の空が一番好きとは、まだ言えない僕は

の方の感想を書いていきたいと思います。

ネタバレも含むかもしれないのでご注意を。

 

 

まず、

何故この映画を見たいと思ったのかという所から書きます。

この映画の原作者はお笑いコンビジャルジャルの福徳秀介さんです。彼の小説デビュー作を実写化したのが本作になります。

吉本興業の読書好きが本を紹介するYouTubeのチャンネルで同じくお笑いコンビピースの又吉直樹さんと、福徳さんがゲストとしてトークしている動画があるのですが、その動画を見てこの映画に興味が沸きました。

 

その動画で福徳さんが語ってたのが「恋愛」というジャンルに対する情熱です。彼は恋愛というジャンルをこの上なく愛していて、恋愛しか書けないし、次回作以降も恋愛以外書く気はないと並々ならぬ恋愛というジャンルへの愛を語っています。笑

僕も恋愛というジャンルが大好きなので、この人の作品は期待できそうだなと思いました。いつも面白いコントを創作している彼の真面目な恋愛ストーリーってどんなんだろと気になりました。

 

そして、もう一つこの作品を見たいと思わせてくれた事を語ってきたので紹介します。

福徳さんは読書家でもあり普段から小説を読むそうなのですが、そこで紙の冊子にはない「電子書籍」独特の楽しみ方を語っていました。

電子書籍は電子タブレットなので読むので、紙の本独自の"厚み"を感じさせない。

その厚みにこそ愛着があるという読書家の方々も多いと思いますが、その厚みが消える事でストーリーの着地点が予測できなくなります。

電子書籍はページ数も消せるので、いつ物語が終わるのかわからない、ページをめくったら予想外のところでいきなり終わりがくる可能性というのが紙媒体にない電子書籍独自の楽しみと語っていました。

 

紙の読書派の僕ですが、

この話を聞いてなるほどと凄く感心しました。

僕自身、この紙媒体の小説は最後の"クライマックス"に近づくにつれて残りのページ数から最後の展開が絞られていくので、ラストの着地点の意外性が薄くなっていくという問題は感じていました。

残りのページ数は左手の感覚で測る"本の厚み"から感じとれて、読者はラストを意識せざるを得ない。

その問題を解決するのが"電子書籍"という比較的新しい読書の形というのが面白かったです。

 

 

という以上の福徳さんの話を聞いた上で、

福徳さんという人物に対する信頼と興味が湧いたので、彼の小説を原作とするこの映画は見る価値があると判断して、公開初日の仕事終わりに映画館に足を運びました。

お客さんは僕含め3人でしたので席は空いてました。

 

 

さてここから映画の感想になります。

簡単に一言言うと、もう一回見たいと言えるくらいに素晴らしかったです。

恋愛小説大好きでお笑いコントのキングでもある福徳さんが作った物語ははたしてどんなものだったのでしょう。

 

恋愛というジャンルについて、少し考えていきたいと思います。

異なる男女がいて、どちらか一方あるいはお互いが恋をして、どちらかが「好き」という思いを告白して、恋が成就するあるいはフラれる。

というのが一番簡単な流れというか、

人を好きになって上手くいくか上手くいかないかしかないといえます。

 

その流れの中で、

最も盛り上がる所は何処かというとやはり「好き」という思いを伝える告白のシーンではないでしょうか。

上手くいけば幸せなハッピーエンドですが、フラれる事でバッドエンドにもなり得るというギャンブル性が見る人を興奮させ、胸をキュンキュンさせる。

 

「Aさんがいました。Bさんがいました。AさんがBさんに好きと言いました。2人は付き合いました。」

 

という数行で終わる骨組みに時間や感情、その他の登場人物、越えなければいけない障壁などの様々な装飾を重ねて恋愛小説は物語の厚みを増していきます。

 

恋愛大好きな福徳先生が、

「好き」

という言葉を感情の高まりのピーク、クライマックスへ導くために、如何なる手法で物語に装飾を重ねて厚みを持たせていくのか、この映画の見所だとおもいます。

 

原作を読んでないのでこれから読むのですが、

この物語を見事に映像と音声に落とし込んだ大九明子監督もまた物凄い才能の方であると思います。

「好き」をクライマックスに持っていき、感動の高まりと一致させる為の"下準備"を坦々と進めていたのだなあと、映画を見終わったあとに理解します。

 

またこの物語、スピッツの「初恋クレイジー」という曲が重要な役割を果たしています。

どう説明していいか分からないですが、物語を修飾する"文学的"側面と映画を演出するための"音楽的"側面の2つの役割を果たしているように思えます。

 

あんまり語りすぎるとネタバレになるので映画を見てほしいのですが、

ラストシーンの"静寂"の使い方が最高に素晴らしいと感じました。これは"映像"と"音"の両面においてです。この"一瞬の静寂の余韻"というのは日本の伝統さへ感じました。この一瞬のためにこれまでの過程はあったのだなと感じさせる走馬灯とでもいうのでしょうか。

 

"古池や蛙飛び込む水の音"

 

的な静寂とでもいうのでしょうか。

 

 

 

これは僕の話になるのですが、

昔酔っ払って駅前の公園で座って休んでた時の事です。いきなり周囲がとても静かになりました。

公園にあった噴水が止まり、その噴水の流れる音が消えたのです。噴水が止まった時、初めて今まで噴水の音がずっと鳴っていたことに気づいたのです。

「この無音がいいんだよね。この無音が。」

と近くにいた別の酔っ払いのおっさんが言ってましたわ。笑

 

f:id:yodomu69:20250501073600j:image

映画ファーストキス感想

 

はい、どうもお久しぶりです。

 

f:id:yodomu69:20250412104449j:image

 

今回は最近見た映画「ファーストキス」の感想を書きたいと思います。

この映画は上映開始前からとても期待していました。

なぜなら脚本坂本裕二、主演松たか子のコンビだからです。この2人のコンビのドラマは間違いなく面白い‼︎

 

このコンビの作品を知ったのはカルテットというドラマです。このドラマ面白すぎてやばいですよ。

f:id:yodomu69:20250412104716j:image

 

その後放送された、

大豆田とわ子と3人の元夫も面白すぎて、定期的に見返すくらい好きです。

f:id:yodomu69:20250412104730j:image

 

 

松たか子さんの演技は自然すぎて、

天真爛漫で嫌味がなく僕は大ファンです。

松さんみたいな人と結婚したい‼︎と思うほどです。

 

そして、脚本の坂本裕二さんは言わずと知れた大ヒットメーカー。僕がこの人の名前を意識し出したのは、あなたの隣に誰かいるという作品を見てからです。

 

f:id:yodomu69:20250412105239j:image

 

この作品も面白すぎるし、怖すぎるんですよね笑

 

 

坂本裕二さんの作品でよくあるテーマが、

「夫婦愛」です。

そして彼の作品の中で描かれる夫婦愛とは、

男女の愛情のテンションの高まりのピークを超えた後の愛の衰退期、倦怠期というような夫婦の愛が下降線になっていく様です。

 

坂本さんはこのような愛情のピークを超えた夫婦間に訪れる氷河期的期間を、

「誰にでも普遍的に訪れる自然の摂理」のように捉えているような感じがします。

そして、その誰にでも訪れる愛の氷河期を如何に避けて、如何に対処して、如何にハッピーエンドを迎えるために乗り越えていくかということを、作品の中で我々日本人に対して提示しているように感じます。

 

今現在生きている我々は「1回目」の人生を生きています。

そして、これに2回目はこない、最初で最後の人生です。

その事実に対して、現代人はあまりにも無頓着で鈍感な気がします。

大切な人が隣にいて共に生きている奇跡が、

"当たり前の日常"になってしまい、

大切な人への感謝を忘れて粗末に扱ってしまう。

その繰り返しが人々を取り返しのつかない所へ導き、もう過去には戻れないと気づいた時に後悔しても遅いのです。

 

 

坂本裕二さんは、

「まだ戻れるうちに戻れ」

「取り返しがつかなくなる前に対処しろ」

ということを、

映画という作品の中で最悪の展開の"if"を見せることで、作品を見た人に気づかせてくれようとしている。

そのような気がします。

 

 

大豆田とわ子と3人の元夫では、

3度の結婚と離婚を経験した主人公をコミカルに描いていましたが、

その結末も本当に好きな人とは結ばれないというという最後でした。

 

 

本音で語り合う努力、他人に自分を偽らず生きる努力、好きな人には好きという努力、好きな人をずっと好きでいる為の努力。

結婚という人生の一大イベントに挑むに際して、

ハッピーエンドへ向かうには我々にはやる事が多そうです。

 

以上、三十路独身男の感想。完