一年間

 

おっす、

今日もお疲れ様。

 

今日は久しぶりに文章の方を書いていこうと思います。

 

このブログを初めて一年が経ちました。

高校卒業して、大学休学して、フリーターになって、働きたくねえ〜と思って、大学に戻って、スペインに留学して、日本に帰って、半年大学行って卒業して、適当に就職して、そこから一年間。

長いようで早かったです。

 

1番最初の投稿を見てみると、魔女の宅急便のキキみたいな気分みたいな事書いてたけど、この1年間は色々ありました。笑

 

大学生から社会人というステージの上がって、

新しい常識や新しいタイプの人、色々出会いました。

結果的には最初に就いた職場は辞めて、現在新しい仕事をしているのですが、今のところその選択は間違って無かったと思います。

 

職種は変わったものの、業界は変わっていません。

僕が今いるこの業界は時代の過渡期にあり、古い方法がこれからどんどん淘汰されていくところにあります。

 

僕が最初に入った会社で僕は業界について学ぶにつれて、この会社に未来はないと強く思うようになりました。

僕はそのような思いをひきづりながらズルズルと時間を過ごすのが嫌だったので、スパっと辞めてしまいました。笑

 

先日、高校の同級生と久しぶりに連絡を取りました。

彼にもこのブログを紹介したので、この記事を読んでくれたら嬉しいですね。笑

 

彼は音楽をやっていて、ストイックにその道を進む求道者のような人です。

彼との会話の中で、「一般的な感覚」って何?

っていう話になりました。

人それぞれ感覚は違うのに、一般的な感覚なんて定める事も、知ることも不可能なんじゃないか、そんな話をした気がします。

 

個々人が独自に持つ、自分自身が持つ感覚を「クオリア」と哲学では呼んだりするらしいです。

(この事過去にも書いたかな?)

 

育ってきた環境、容姿や背丈も違う人々が共通に持つ「一般的な感覚」とは何か?

 

人と関わる事が好きな人でも嫌いな人でも、

社会に出たら人と関わることはほぼ避けては通れない事です。

人と対面して関わる度に、人は自分達が持っている物事への認識を言葉に出して、お互いの認識すり合わせます。

他人が持つある特定のものに関する認識を確認する度に、自分自身の物事への認識が世間と合っているか、ずれているかが定まってきます。

 

僕は現在、制作の仕事をしていて、デザインを学んでいます。

デザイナーとしては人にわかりやすく物事を伝えるということが大前提なので、

「一般的な感覚」を身につける必要があります。

一般的な感覚とは結局のところ、「世間一般の大多数が持っている常識」というところに落ち着くのでしょう。

 

デザイナーが一般的な感覚を理解しないまま制作をするならば、

それは鏡を見ないで化粧をするようなものなのかもしれません。

自分自身の感覚を世間にぶつけて跳ね返ってきたもので、自分の感覚と世間の感覚を知ることができる。

その為には、自分から踏み込んで誰かの世界に入り込んでいかなければならないのだと思います。

 

それは生きていく上でとても大事な事です。

しかし、世間一般に自分の感覚をすり合わせ過ぎると、自分の持っていた感覚自体を見失って無くなってしまうという事になります。

誰もが誰かに自分の感覚を擦り寄せて、

自分の感覚を無くして均一化された世界なんてとてもつまらないでしょう。

 

世間一般の反応から自分自身を知ることが、

鏡を見て自分の姿を知る事に喩えられるなら、

 

自分自身に問いかけ自分自身を知ろうとする事は、何も見えない暗闇で自分自身の身体に触れて続けて、自分の姿を知ろうとする事かもしれません。

アーティストってそういう事をしてるのかなって思います。

それは自分自身を美しいと思うも、醜いと思うも自由な世界です。

そして、アーティストはその世界を誰かの世界に広げる事ができる。

 

 

誰かの世界に踏み込む事と、

自分の世界を広げる事、

その両立が生きる上では必要なんじゃないかと思います。

 

その音楽家の友達は暗い闇の深淵の中で、

サグラダファミリア並の建造物を築いているのだと思います。

 

どっちが先に有名になるか勝負するという事になったんで、これからも俺は漫画家になる為に頑張ります。笑

そして手塚賞取って、芥川賞取って、

M-1優勝する‼︎

 

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